講義ノート() ≪新聞の未来≫

 

【インターネット】

●先ごろ、朝日新聞に「『2ちゃん』訴訟の嵐」という記事が載った。わが国最大のインターネット掲示板「2ちゃんねる」が名誉棄損やプライバシー侵害の書き込みを放置しているとして、サイト管理人の西村博之氏が被害者から損害賠償を求められるケースが相次いでいるという話だ。おまけに、西村氏は裁判で敗けても支払いに応じず、これまでに踏み倒した金額は4億3000万円を超えるという。取材に対し、西村氏は「踏み倒せば払わなくてもいいという不完全なルールの中でみんな暮らしている。払わなくて死刑になるなら払っていると思いますよ」と語っている。これが今どきの若者なのか、人権の重みなどどこ吹く風の、人を食ったコメントだ。

 インターネットは双方向のメディアだとされる。従来のメディアが新聞社や放送局から読者や視聴者への一方通行だったのに対し、インターネットはサイトにアクセスし、そこに書き込みをすることによって、受信者がいつでも発信者になり得る。掲示板はその最たるものだろう。近所のカミさん連中が噂話に花を咲かせる井戸端会議を思えばいい。誰もが聞き手であると同時に話し手でもある。電子の力で「ご近所」が「世界」に広がったのがインターネットというわけだ。

 しかし、近所の井戸端会議と決定的に違う点がある。話し手が誰なのかがわからないという匿名性だ。実生活とは無関係なネット上では、相手に報復される恐れがないから、隠れ蓑を着た人間はいくらでも攻撃的になれる。感情の赴くままに他人を誹謗中傷し、悪態をつく。「これでもか」と最大級の罵詈雑言が飛び交う。掲示板の中で書き手同士が罵り合うのはしょっちゅうだ。

 匿名性は悪い面ばかりではない。組織の内部告発のような書き込みも簡単にできる。電話や手紙でマスコミに垂れ込むのに比べ、心理的なハードルは低い。ただ、それが本当の内部告発なのか、私的な鬱憤晴らしなのか、はたまた事実無根の与太話なのか、傍からは確認する術がない。

 掲示板は「公衆便所の落書き」だといわれる。書き手に責任が伴わない点で、確かに便所の落書きに似ている。「2ちゃんねる」の管理人が賠償金を踏み倒しているのは、もしかしたら「俺は便所の壁を提供しているだけであって、文句があるなら落書きをした奴に言ってくれ」と思っているのかも知れない。

 掲示板も一種のマスコミだという意見がある。井戸端会議がクチコミなら、不特定多数が参加する掲示板は確かにマスコミには違いない。しかし、それは作用としてマスの間のコミュニケーションになっているというだけであって、責任を伴わないマスコミはあり得ない。怪文書を1億枚ばらまいてもマスコミと呼ばないのと同じだ。掲示板は巨大な井戸端会、巨大な公衆便所に過ぎない。

 掲示板は無責任な落書きだから面白いのであって、責任ある言論の場になったら、多くの参加者が逃げ出すに決まっている。だいいち、Aと名乗る人物が本当にAなのかどうかさえ、ネット上では確かめようがない。或いはまた、管理人が職務に熱心で、人権侵害の恐れのある書き込みを片っ端から削除して回ったら、これまた人が寄りつかなくなるだろう。被害者が「取り締まり強化」を求める気持ちは理解できるが、インターネットとは本質的に無責任なメディアなのだということを割り引いて考えなければ、その優れた機能まで殺してしまうことになりかねない。

 

【ネットニュース】

●ここからが本題。新聞社はどこもインターネット上に自社のニュースサイトを持っている。朝日新聞は「アサヒ・コム」、毎日新聞は「MSN毎日インタラクティブ」、読売新聞は「読売オンライン」、日本経済新聞は「日経ネット」、西日本新聞は「西日本新聞九州ねっと」といった具合だ。

 「アサヒ・コム」のニュースはどうやって作っているかと言うと、朝日新聞社内に「デジタルメディア本部」というセクションがあって、そこが朝日新聞の記事の中から主なニュースを選んで掲載している。見出しも、新聞の見出しを少し簡略にしたものを自前で付けている。「マイタウン」という都道府県別のローカルニュースは、それぞれ県庁所在地の総局が入力している。事件事故のような突発的なニュースは、新聞用の詳しい記事とは別に、速報用のフラッシュニュースを取材部門からデジタルメディア本部に流す態勢を取っている。

 朝日新聞社の会社説明には「アサヒ・コムは、インターネット元年といわれた1995年にスタートし、日本の代表的なニュースサイトとして、一貫して高い評価を得ています。サイト全体の月間ページビュー(PV)は2億超、同じくユニークユーザー数は800万人を上回ります。06年夏の第88回全国高校野球選手権大会の決勝再試合の日は1日で約2000PVを記録するなど、日々成長を続けているネットメディアです」とある。

 このように、新聞社のニュースサイトは、新聞という母体があって初めて成り立っている。新聞がなくなれば、インターネットでニュースをチェックするという便利さも消えることがわかるだろう。

●これとは別に、ヤフーグーグルのような検索サイトもニュースを掲載している。こちらはどうやっているかと言うと、新聞社のニュースサイトから主なニュースを引っ張ってきているのだ。但し、ヤフーとグーグルではニュースを集めてくる仕組みが違う。ヤフーは、新聞社のニュースサイトをチェックする担当セクションがあって、そこのスタッフがニュースを集め、それを取り込んでヤフーのニュースページを作っている。もちろん勝手に使うことは著作権の侵害になるから、許可を得て著作権料を払っている。

 これに対してグーグルニュースは、人手を使わずに、一般の検索と同じように検索ロボットと呼ばれる何万台ものパソコンがニュースサイトを巡回サーチしていて、めぼしいニュースを集めてくるらしい。同じ種類のニュースは一つにくくってある。並んだ見出しの中から、この記事を読みたいと思ってクリックすると、その新聞社のページに飛ぶ。新聞社のニュースを寄せ集めた索引(インデックス)のようなものだ。人手を使わずに、必要なニュースとそうでないニュースをどうやってふるい分けるのか、A新聞のこのニュースとB新聞のこのニュースが同じものだとどうやって判定するのか、講師にはよくわからない。すごい技術であることは間違いない。

 グーグルニュースが日本に登場したのは2004年9月だ。このとき、大手新聞社の対応は真っ二つに分かれた。朝日と日経は検索対象になることを了解し、毎日、読売、産経は最初は拒否した。反対の急先鋒は読売だった。「記事の本文は新聞社のニュースサイトにリンクしているにしても、見出しを勝手に取り込んでいるではないか。見出しには著作性があるのだから、やはり著作権の侵害になる」と主張した。この前も説明したように、新聞の見出しは整理部(編集センター)というセクションで記者が四苦八苦して付けていて、見出しに著作性を認めた判決もある。読売の主張にはそれなりの理屈があり、もしかしたら裁判を起こすのではないかと見られた。しかし、結局は3カ月で矛を収めてしまった。見出しを使う対価として、グーグル側が新聞各社にいくらか著作権料のようなものを払っているらしいが、くわしいことは知らない。

 以上の話をまとめると、検索サイトのニュースも新聞社のニュースサイトに依存していて、やはり新聞がこけたら皆こける、ということだ。「ニュースはネットで見るから、新聞は要らない」と言っている君たち一人ひとりが新聞の首を絞めていることが、少しは理解できただろうか。このまま行くと、気がついたらネットニュースもなくなっていた、という時代が来ないとも限らないのである。

●マスコミに少し詳しい人なら、新聞社のニュースではなく通信社のニュースを使えばいいじゃないか、と考えそうだが、ことはそう簡単ではない。2007年4月、フランスの通信社AFPがグーグルと和解したというニュースがあった。さっき読売新聞がグーグルを相手取って裁判を起こしそうな気配があったと言ったが、AFPは2005年3月に「グーグルは見出しや写真を無断で掲載し著作権を侵害している」として、1750万ドル(約20億円)の損害賠償を求める裁判を起こしていたのだ。AFPが和解したことで、世界の主な通信社は軒並みグーグルと手を握った形になった。

 通信社がグーグルにニュースの使用を認めるのは、もちろん時代の流れには勝てないということもあるが、本来の顧客である新聞社がまだしっかりしているからでもある。もし新聞がバタバタと潰れてしまえば、ネットへの配信収入だけで今のような組織が維持できるはずがない。そうなればなったで、代わりの組織が登場するかも知れないが、少なくとも現在の通信社のような手厚いニュース配信は望むべくもない。人々がネットニュースにアクセスするのはそれが無料だからであって、提供する側から言えば、無料ニュースの仕入れにそれほど金を掛けるわけにはいかないのである。

●こうした新聞社系サイトや検索サイトのニュースとは別に、ネットで独自ニュースを流すサイトがある。講師の知っている「JANJAN」は、元朝日新聞記者で元鎌倉市長の竹内謙氏が中心になって開設した。登録した市民記者に記事を書いてもらい、編集委員会の運営費は賛同者(サポーター)らのカンパでまかなうシステムだ。「市民メディア」を理念に掲げている。朝日新聞記者だった本多勝一氏や筑紫哲也氏らが作った「週刊金曜日」のネット版といった感じだろうか。

 このサイトは政治・経済・国際・社会・文化などさまざまな分野のホットな問題を論評する記事やコラムと、市民記者による草の根のレポートを主な柱としている。今や希少な存在になった硬派ジャーナリズムの一つである。ただ、これも今のところ、新聞に取って代わることを目指しているわけではない。新聞など既存のマスメディアの目の届かない現場からニュースを掘り起こし、或いは既存メディアが避けて通る問題を正面から取り上げることに照準を定めているようだ。新聞を読まない人向けではなく、新聞に飽き足りない人のためのメディアと言えるだろう。

 

【テレビ】

●ならば、テレビはどうか、と言えば、やはりテレビに新聞の代役は果たせない。何より取材記者の数がはるかに少ない。朝日新聞には2600人の記者がいる。第一線で取材する記者はその3分の2ぐらいだろうか。これだけの取材態勢を敷いているテレビ局はNHKしかない。東京のキー局にしても、全国紙の東京本社と比べれば、報道部門の取材記者は何分の1かだろう。大阪や福岡の民放各局と全国紙の大阪本社や西部本社と比較しても同じことだ。そのほかの県では、地元テレビ局のほうが全国紙より多いのは当然だが、この場合は地元紙と比較しなければならない。地元同士でテレビと新聞を比較すれば、やはり新聞のほうが桁違いに取材態勢が厚い。

 取材記者の層の薄さは、報道の質に影響する。小さなテレビ局ではあれもこれも掛け持ちでやらされる結果、掘り下げた報道ができないことが多い。そもそも記者職で採用する局のほうが少ないくらいで、そのときの事情で報道に配属されれば記者、営業に配属されれば営業マン、途中で出入りすることは当たり前、という人事が一般的なのだ。これでは専門記者がなかなか育たない。

 しかも、テレビ局の中にあって、放送記者のいる報道部門は必ずしも重要視されていない。東京キー局でいえば、報道部門が充実しているのはTBSぐらいで、フジテレビや日本テレビのように娯楽路線を走るテレビ局では相対的に報道部門が軽んじられる傾向が出てくる。一方、地方のテレビ局は、極端に言えばキー局から流れてくる番組を垂れ流すだけでも商売はできるから、社員数が少ないほど経営効率が良くなる。必然的に報道のような儲からない部門は邪魔者扱いにされる。

 結局、テレビがカバーできるニュースは、事件事故のような日々の「発生もの」と、役所の記者クラブで発表される「発表もの」と、季節の話題や街の話題を拾う「スケッチもの」ぐらいに限られる。新聞の「企画もの」のような番組は、報道部門ではなく制作部門ディレクターが作るが、これも局の体質というか、娯楽重視の局は娯楽番組のディレクターが幅を利かせていて、ドキュメンタリー番組を作るディレクターは肩身の狭い思いをしているようだ。君たちがアホなバラエティー番組ばかり見ることによって、そのほうが視聴率を稼げるということになり、ますます娯楽路線が重視され、報道番組やドキュメンタリー番組は片隅に追いやられていくのだ。

●テレビやラジオはもともと、芸能や音楽を中心とした娯楽メディアとして出発した。やがて放送技術の飛躍的発展によって、どんな場所からでもリアルタイムで放送できるようになり、報道に大きな力を発揮するようになった。1969年の東大安田講堂事件(東大全共闘や支援の学生が東大の安田講堂に立て籠もり、機動隊と激しい攻防を繰り広げた)や、1972年の浅間山荘事件(新左翼の連合赤軍が軽井沢の浅間山荘という河合楽器の寮に立て籠もり、機動隊と銃撃戦を繰り広げた)では、国民をテレビの前に釘付けにし、放送メディアの威力をまざまざと見せつけた。

 こうしたテレビの特性は、テレビの報道姿勢にも反映される。大事件があれば集中的に人員を投入し、「絵になる」シーンを撮ろうとする。いい「絵」を撮ろうとしてテレビカメラが殺到することで、メディアスクラム(集団的加熱取材)が起きる。新聞記者同士や新聞カメラマン同士の間でも起きないわけではないが、テレビのカメラクルー(カメラ、照明、録音など3人ほど)が入ると、テレビ局同士や、新聞とテレビの間で一気にエスカレートする。

 これは家人から聞いた話だが、先の長崎市長銃殺事件のとき、伊藤一長市長が救急車の中で血まみれになっている姿がTBS系列で放映されたらしい。見た人の話では衝撃的な映像だったそうだ。家人はNHKのニュースで、テレビカメラが突っ込まれているために救急車が発車できないでいるシーンを見て「あんなことしていいの」と思ったそうだ。取材対象に肉薄することはもちろん大切だが、人命にかかわる場合は一歩引かなければならないこともある。報道倫理は社会常識との微妙なバランスの上に成り立っていることを忘れてはなるまい。

 以上見てきたように、テレビは本質的に、動きのあるできごとをそのまま伝えるのに適したメディアであり、できごとの背景を探ったり、意味を分析したりするような動きのないニュースは得意ではない。そこにこそ活字メディアの存在価値があるわけだから、新聞が消えればそうしたニュースは抜け落ちてしまうしかない。

 

【雑誌】

●唯一、可能性があるとすれば、同じ活字メディアの雑誌(週刊誌や月刊誌)が新聞の役割を果たすことだろう。しかし、これもそう簡単にはいかない。なぜなら、雑誌に読み応えのある記事を書くライターは、どうやって材料を集めるかと言えば、基本的には新聞記事に依存しているからだ。新聞を丹念に読み、その中から「これは掘り下げてみる価値がありそうだ」と判断したニュースを追いかける。これが雑誌ライターの取材スタイルといっていい。新聞の「第一報主義」に対して、雑誌は「続報主義」と言われるのは、加工した切り口の面白さで勝負しないと、誰も雑誌を買ってはくれないからだ。

 「田中角栄研究」など数々の著作で知られるフリーライターの立花隆氏は著書『ジャーナリズムを考える旅』(文芸春秋、1978年)の中で、雑誌と新聞の違いについて、こう記している。

 先月のできごとや昨年のできごとは、新聞にとっては本来ニュースたりえないものである。世の中には、歴史のフィルターを通して見たときにはじめて浮かびあがってくる事象というものがあるものだが、むろんそれは新聞の守備範囲ではない。さらには、一つ一つのニュースについて紙面をどう工夫しても収容しきれないほどの事実関係のディーティルやそのバックグラウンドもまた新聞の守備範囲ではない。むろん、ディーティルやバックグラウンドが新聞では一切無視されるということではない。大きなニュース、継続的なニュースであれは新聞は基礎的事実関係以上のものを報道することが期待される。新聞の機能としてニュース解説はニュース報道と同じくらい大切である。しかし、新聞にはあくまでスペースの限定がある。記者には本格的な解説を書く能力があっても、彼に与えられるスペースはせいぜい五枚程度でしかない。

(中略)

 雑誌ジャーナリズムはしばしば新聞ジャーナリズムがその仕事を終えた地点からその仕事をはじめる。

 新聞が伝える基礎的事実関係である、5W1Hのうち、WHY(なぜ)、HOW(いかに)を徹底的に掘り下げるのが一つの仕事とするなら、もう一つの仕事は、もう一つのHOWの視点を付け加える仕事である。すなわち、その事実関係全体をいかに位置づけ、いかに解釈し、いかに評価・批判すべきかという視点である。ここにおいて、雑誌ジャーナリズムのレポーターは、レポーター(報道者)であると同時に、クリティク(批評者)でもあらねばならない。

 新聞が世にインパクトを与えるのは、主として新聞が伝える事実そのものの持つ衝撃性による。それに対して、雑誌が世にインパクトを与えるのは、事実そのものより、事実の読み取り方、事実を見る視角、視点、全体的視野の中へのそれの置き方などである。新聞を、材料そのものを生のままに生かすことによって勝負する日本料理とするなら、雑誌は、材料の加工によって勝負するフランス料理、中華料理といえるだろう。

 立花氏がいみじくも「雑誌ジャーナリズムはしばしば新聞ジャーナリズムがその仕事を終えた地点からその仕事をはじめる」と言っているように、新聞の「一次情報」を素材にして、雑誌の「二次情報」が加工される。新聞がなくなれば、雑誌ライターはもっぱらテレビニュースをヒントにするしかなくなるだろうが、いま言ったようにテレビのニュースは質量ともに新聞の比ではないのだから、彼らの飯のタネはそれだけ乏しくなるのは避けられない。かくて、新聞の衰退はジャーナリズム全体に深刻な影響を及ぼさずにはおかないのである。

●立花氏は日本食とフランス料理の違いに例えているけれど、講師は新聞を「白ご飯」だと考えている。主食の白ご飯を食べ、あれこれのおかずに順繰りに箸を付け、その間に味噌汁や吸い物を吸うから、おいしい食事ができる。白ご飯の代わりに、たまには混ぜご飯や麺類やパンや餅もいいが、それが毎日となると飽きてくる。イタリアに旅行したときなど、スパゲティやマカロニなどパスタばかりの毎日にうんざりして、無性に白ご飯が恋しくなったものだ。白ご飯は誰でも食べるし、三度三度食べても飽きない。尤も、最近はおかずだけでご飯を食べない若者や子どもがいるらしい。新聞を読まない時代だから、そういう人間が出てきてもおかしくはない。

 新聞は情報の白ご飯だから、知的生産活動に携わる人は新聞をよく読む。ジャーナリストやフリーライターはもちろん、評論家、コラムニスト、エッセイスト、作家、社会科学系の学者、教師などなど。1紙だけでなく、たいていは複数の新聞を読む。先ほどの立花隆氏などは、東京で手に入る新聞はすべて目を通しているのではなかろうか。複数の新聞を購読すると言っても、隅から隅まで読む時間はないから、見出しをざっと眺めて、これはというところだけ拾い読みするわけだ。最初の講義で言ったように、見出しに目を通すだけなら、1紙につき10分もあれば十分だ。必要と思った記事はそのときすぐに切り抜いておけば、あとで役立てることができる。この「あとで利用できる」というのが、テレビなどと違う活字メディアの利点でもある。

 それから、これも初回に言ったことだが、新聞はその日のニュースを何十ページかにパックしてあって、新聞社が重要だと判断したニュースは大きく、そうでないニュースはそれなりに扱われている。いつ読もうと、どれを読もうと、どれから読もうと自由だ。放送メディアだとそうはいかない。ニュースの時間にテレビやラジオの前にいなければならない。アナウンサーやレポーターの話を時間を追って聞かなければならず、途中でパスすることはできない。ネットニュースは新聞に似ているけれど、それぞれの項目がどれほど重要かの価値判断が伴わない。「新聞社の価値判断を押し付けられたくない」という意見は尤もらしく聞こえるが、それはよほどの情報のプロに限った話だ。人間はすべての分野で的確な価値判断ができるわけではない。自分のよく知らない分野のニュースは「いま世間ではそういうことが重要なニュースなのか」と受け止めるほうが間違わずに済む。その上で、徐々に自分なりの考え方を固めていけばいい。

 

【フリーペーパー】

●最近、無料で配る「フリーペーパー」「フリーマガジン」が急激に増えている。以前から無料だった就職情報誌や住宅情報誌に加えて、このごろはタウン情報誌も無料化が進んでいる。有料のタウン情報誌が売れなくなったから無料誌が登場したのか、無料誌が登場したから有料誌が売れなくなったのか、因果関係は定かでないが、福岡のタウン情報誌「シティ情報ふくおか」も部数が減り続け、2005年6月にいったん休刊に追い込まれた。大都市圏では地域情報誌を無料で配るミニ新聞社が登場し、既存の新聞社もタウン情報や地域情報を盛り込んだフリーペーパーを発行するようになった。

 例えば、東京新聞は首都圏の主婦向けに「東京新聞ショッパー」という生活情報のフリーペーパーを出している。読売新聞大阪本社は200611月、京阪神の若者向けに、広告局が発行するフリーペーパー「WHAP(ワップ)」を創刊した。エンターテインメント系の記事を中心に若者に関連する商品や情報を載せるという触れ込みだ。西日本新聞も、福岡都市圏の若者向けにフリーマガジン「BNT(ビー・エヌ・ティー)」を出している。天神を舞台に若者文化・街角を追う同紙朝刊の「Bana-Ten(天神バナナ)」の延長線上に生まれたフリーマガジンだそうだ。

 フリーペーパーの発行は、毎日というのは少なく、週刊か旬刊か月刊が多いようだ。配布の仕方は、戸別宅配する方法、新聞の折り込みに入れる方法、ラックに入れて店舗や街頭に置く方法などがある。新聞社系は折り込みが多いが、西日本の「BNT」は店頭でのスポット配布だ。

 フリーペーパーが急増した背景には、やはり若者の新聞離れがある。若者向けの商品を扱う企業は、新聞の折り込みでは情報が届かなくなってきているため、全戸宅配のフリーペーパーや、若者の集まる場所に置かれるフリーペーパーに積極的に広告を出すようになったと言われている。

●以上のようなフリーペーパーは、知ってトクする情報誌(紙)であって、報道を中心とする新聞とは役割が違うから、フリーペーパーが増えたから新聞が売れなくなるというゼロサムの関係にはない。ところが、欧米では新聞そのものにまでフリーペーパー化の波が押し寄せている。購読料を取らなくても、広告収入だけで経営が成り立つ新聞が登場したのだ。欧米の新聞はスタンド売りが中心だから、宅配制度の発達した日本ではそう簡単には広がらないだろうと見られているが、首都圏ではすでに「東京ヘッドライン」という週刊フリーペーパー新聞が発行されている。同社によれば、店頭のラックに入れる方式で35万部を配布しているという。

 イギリスでは、すでに激しいフリーペーパー戦争に突入している。ネットを検索していたら、「小林恭子の英国メディア・ウオッチ」というサイトに、2006年9月26日付で以下のような記事が載っていた(一部省略)。

 ロンドンで二紙の無料紙が相次いで創刊された。夕刊での無料紙の発刊は初めて。通勤客が約五百万人とされるロンドンで、二紙は当初の目標だった四十万部の発行部数をほぼ達成した。

 新たに登場したのは、アソシエーテッド・ニューズペーパーズ社の「ロンドン・ライト」(八月三十日創刊)と、ニューズ・インターナショナル社の「ザ・ロンドン・ペーパー」(九月四日)の二紙。ロンドンの無料紙は朝刊の「メトロ」(約五十七万部、英ABC調べ)、経済情報を中心とする「CITYAM」(約九万部/昨年創刊)と合わせ、四紙となった。

 今回の相次ぐ創刊は、ニューズ社を率いるメディア王のマードック氏が、メトロの成功を見て、夕刊紙市場への参入を表明したことがきっかけ。アソシエーテッド社もかねて夕刊の無料紙発行を考えていた。

 両紙とも、新聞を読まず、テレビやラジオもそれほど視聴せず、ウェブサイトで情報を得る読者層を想定する。広告業界が最も接触を望む層でもある。そうした読者を引きつける媒体が、夕刊紙の市場にはなかった。

 一方、部数減の一途をたどっていたスタンダード(約三十一万部)は、「プレスガゼット」(十五日付号)によると、相次ぐ無料紙の発刊で連日、七千部の落ち込み。八月三十日から一部五十ペンス(約百円)に値上げし、高級紙に価格が近づいた。読者層を世論への影響力が大きい高所得者に拡大し、無料紙と差別化するのが狙いとされる。

 ロンドンの無料紙の今後については、有料紙と両立するという見方と、共倒れになるとの意見が拮抗する。

 新聞のフリーペーパー化は、日本でも着実に進むだろう。新聞を購読していない若者層にまず浸透し、彼らが歳を重ねるに連れて、無料新聞のシェアが徐々に広がっていくに違いない。しかし、有料紙が駆逐されて、新聞がことごとく無料紙になったとき、そこにはどんな風景が広がっているのだろうか。

 金を払わずに新聞を読めるということは、広告主が負担するからである。広告主は善意で負担しているのではなく、広告費を上回る収益を読者から得る見込みがあるから負担するのである。つまり読者が購読料として払うべき金が、新聞社ではなく広告主に行くだけの話だ。一人一人の読者は「自分は新聞広告に釣られてモノを買ったりはしない」と言うかも知れないが、読者全体では必ずそうなる。でなければ、無駄な広告を出していることになり、そういう広告主は淘汰されていくしかない。

 無料化によって、新聞の質の低下も免れられないだろう。「いい商品が欲しければ、それに見合う金を払え」というのが経済の法則である。そして、情報は商品である。それをタダで提供しようという以上、無料紙はできるだけコストを抑えなければならず、編集に余分な金をかけられない。できるだけ少人数で、できるだけ安い給料で済ませようとするだろう。それでいい人材が集まるはずがない。少なくとも現在の新聞のような取材態勢は取れるはずがない。タダの新聞は、それに見合った内容の新聞にならざるを得ない。読者がそれでいいというのであれば、もはや言うことはない。知的レベルの低い社会が出現するだけだ。マスメディアには載らない希少な情報を握る特権的な階層と、ガラクタのような情報を与えられ、広告に踊らされるだけの階層とに二極分化するだろう。そういう世界に講師は住みたくない。

 

【新聞は高いか】

●フリーペーパーの話が出たついでに、新聞が高いかという問題を考えてみよう。新聞は月決め3925円である。一日130円だ。新書1冊分のニュースが詰まっていて、しかも朝夕の2回、家まで届けてくれて、130円というのはむしろ安すぎるのではないか、と講師は思うのだが、君たちはたぶん「それでも一カ月3900円は高い」と言うだろう。講師だって、退職して無収入になったから、今は会社から無料でもらえる朝日新聞しか読んでいない。ところで、新聞が高いという人ほど新聞を読んでおらず、そのくせに携帯電話の通話料はいくら高くても払っている。最近は定額制が一般化したようだから、月々2万円とか3万円とか払う利用者はいなくなったのかも知れないが、ひところはそれが当たり前のような若者が多かった。「ケータイは楽しい。新聞は楽しくない」という声が聞こえてきそうだ。しかし、いま楽しければそれでいいというのは「刹那主義」だ。楽しくなくても自分に投資してこそ、明日の発展がある。楽しくない勉強をする、楽しくない本を読む、楽しくない練習をする。みんなそうだ。スポーツ選手でも、ピアニストやバイオリニストでも、大工でも左官でも、或いは新聞記者でも作家でも、厳しい努力があればこそ、優れた技術を身につけることができる。

 新聞を読むことは、君たちが社会人として恥ずかしくない最低限の常識を身につけることだ。そういう投資を怠って社会に出て、恥をかくのは君たち自身だ。誰が困るのでもない。困るのは君たちなのだ。

●新聞が高いと思うなら、元を取るほど読めばいい。毎日1時間読んで130円、30時間で3900円だ。新作CDを買えば1時間聴くだけで3000円はする。映画を見れば1時間半で1800円だ。月決め3900円の新聞を、例えば両親と兄弟二人が熱心に読めば、一人当たり1000円にもならない。最初のうちは書いてあることの意味がわからず、読むのが苦痛かも知れないが、「自分にそれだけ常識がないせいだ」と言い聞かせて、とにかく読む癖を付けることだ。意味のわからない言葉が出てきたら、辞書を引くなり、ネット検索で調べることも癖を付けたほうがいい。半年も我慢していれば、世の中で何が起きているのか、何が問題なのかが、だいたい見えてくる。その中で興味を持ったことがあれば、を読んでみよう。さっき立花隆氏の書いていることを紹介したように、新聞は日々のできごとを伝えるのが主な仕事だから、新聞だけではわからないこともまた山のようにある。そうした世界に君たちを案内してくれるのが本だ。読みたい本を買うお金がなければ、図書館を利用すればいい。図書館は知識の宝庫だ。読みたい本のタイトルがはっきりわかっているときは、検索で調べてもらえばいいし、わからないときは、司書に「こういうテーマの本を探している」と相談すれば、どの書棚を探せばいいか親切に教えてくれる。図書館を利用したことのない人は、ぜひ行ってみるといい。

 

【新聞への苦言】

●初回からここまで、長々と新聞の必要性を説いてきた。だからといって、新聞が今のままでいいとは講師も思っていない。批判すべき点は多々ある。しかし、それは新聞を良くするための批判、すなわち国民「知る権利」に奉仕するという、メディアの基本に立ち返らせるための批判であるべきで、新聞は潰してしまえという立場からの批判は方向が間違っている。思慮不足によるものでないとすれば、新聞のない世界を望む立場からの確信的な批判に違いない。新聞はいま、読者離れと新聞批判とによって歴史的な分岐点に立たされている。

 新聞の抱える問題は、それこそ山のようにある。3回目に取り上げた「記者クラブとクラブ詰め記者のあり方」の問題や、役所の発表ものを垂れ流す「発表ジャーナリズム」の問題は、記者室に居座って役所の発表ものをこなすだけの記者が外からは限りなく堕落して見えることを物語っている。政治家や役所幹部とクラブ記者との間の「記者懇談」や「オフレコ発言」を、ニュースソースを明かさずに記事にすることの是非も、記者クラブ問題に付随して突き付けられている。近年とみに激しくなったメディアスクラムや、実名報道がもたらす報道被害についても、読者の目はたいへん厳しくなっている。

 新聞販売のあり方も問題になって久しい。強引なセールスは「インテリが作ってヤクザが売る」と揶揄されてきた。新聞拡張員は新聞社に所属せず、不安定な身分の下で出来高払いの給与システムが長年続いてきたために、脅しめいたセールスをする新聞拡張員が後を絶たなかった。新聞社はまた、セールスの拡材として新聞代の何倍もするような景品を付けたり、新聞代を何カ月分もタダにする無代紙を配ったりして、部数拡大に狂奔してきた。それが浮気読者を増やし、新聞の価値を自ら貶めることには目をつぶってきた。「わかってはいるが、やめられない」ということだったのだろう。そんなことなら、全国一律の定価販売を認めている再販制度を廃止すべきだという動きが出てきて、どうにか「販売正常化」を申し合わせたものの、拡材や無代紙が完全に一掃されたとは言い難いようだ。再販指定解除の動きはこれからも折に触れて浮上するだろう。

●巨大化した新聞社組織のあり方も考えなければならない問題だ。管理機能を強化するばかりで、一線記者の生き生きとした取材活動を損なったのでは、ジャーナリズムのあるべき姿から遠のく一方だ。今の新聞社は、記者が「この仕事を選んでよかった」と思える環境にあるとは言い難い。以前、「ベンチがアホやから、野球がでけへん」と吐き捨てたプロ野球の投手がいた。選手がのびのび野球をやれる環境を、新聞社のベンチは整えているだろうか。あれもいけない、これもするなと、縛り付けるだけの中間管理職を拡大再生産してはいないだろうか。

 新聞記者は一人一人が独立したジャーナリスト精神を持たなければいけないが、新聞社という組織で仕事をする以上、チームワークが欠かせない。個々の記者は、やっている仕事が面白ければ寝食を忘れて全力投球する。その代わり、ふてくされてしまえば能力の10分の1も仕事をしない。フリーライターと違って、仕事をしなくても給料はもらえるのだから。いま、新聞社のやるべきことは「このキャップのもとでなら」「このデスクの言うことなら」と、一人一人の記者が意気に感じて仕事をするような環境を整えることだ。機構をいくらいじくり回しても、やる気は出てこない。

●ついでに、朝日新聞に対する講師の個人的な意見を一つ。夕刊は朝刊と別の商品にすべきだと、かねがね考えてきた。セット割れが半分以上になろうかという時代に、朝刊と夕刊を一体の商品として売ること自体に無理がある。ほんとうは廃止してもいいのに、そうすると新聞社は朝から昼過ぎまで仕事がなくなるから、惰性で発行を続けているのだ。夕刊改革の掛け声が何度も掛け声倒れに終わってきたのは、朝夕刊一体路線から抜け出せないからである。どうしても夕刊発行を続けたいのであれば、夕刊だけで完結した新聞にすべきだと思う。

 夕刊編集部を設け、夕刊専従の記者を配置する。朝刊記者をそれだけ減らしたのでは第一線に別のしわ寄せが行くだけだから、肥大化した管理部門を圧縮して夕刊編集部の枠を捻り出し、書き手の記者を集める。夕刊編集部は人手を必要最小限に抑え、生ニュースは追わない。編集部の手が足りないぶんは朝刊記者やフリーライターに夕刊向けの原稿を書いてもらう。雑誌社が原稿料を払って社外筆者に書いてもらうのと同じだ。生ニュースを捨てる代わりに、読み応えのある加工記事を掲載するようになれば、夕刊に読者は戻ってくると思うのだ。夕刊から解放されることによって、朝刊記者も取材のエネルギーを朝刊に集中できるようになる。取材結果を生ニュースだけで終わらせるのがもったいないと思えば、自分のセンスで加工して夕刊に売り込む記者が現れるだろう。それで原稿料までもらえれば、モチベーションは高まる。

 以上、指摘してきたさまざまな問題は、つまるところ新聞の商品力を高めるための課題にほかならない。無料のネットニュースやフリーペーパーが登場した時代だからこそ、金を払うだけの値打ちのある記事を読者に届けなければならない。新聞の生き残る道は、それを措いてほかにはない。

●インターネットによって、世の中に飛び交う情報の量は爆発的に増えた。しかし、ネット上の厖大な情報は、これまで何度も述べたように、玉石混淆である。真実を瞬時に世界に伝える力があると同時に、無責任な流言飛語や悪意に満ちた誹謗中傷を世間にばらまく恐ろしさも併せ持っている。ネット環境が当たり前になったとき、人々は情報の洪水の中で羅針盤の大切さを改めて認識するはずだ。世の中のできごとの判断基準として、新聞の信用力が見直される日は必ずもう一度来る。