悪文2006.11.07

 

 すんなり読めない文(センテンス)を悪文という。文の通りの悪さは、おおむね次のような原因で起きる。

   (1)主語と述語の間が離れすぎている

   (2)主語にかかる修飾句が長すぎる

   (3)多くのことを一文に盛り込みすぎている

   (4)係り結びがおかしい

   (5)何と何を並列させているのかがわかりにくい

   (6)文の途中で主語が揺れ動いている

 例によってカルチャーセンター時代の受講生の文章から具体例を挙げよう。

 

【例1】特に、思い出深い証明写真は、平成7年阪神大震災で店舗が崩壊したあと、再建する気力もなく、空虚な日々を過していたが、就職を決心し、まだ混乱の5月、街中の写真屋で撮った、困惑顔の写真を履歴書に貼ったことだ。

 「証明写真は」という主語に対して、述語が「履歴書に貼ったことだ」では、文として収まりがつかない。受けるなら「履歴書に貼った写真だ」だろう。「写真」という言葉がダブるのを避けて「それ・もの・一枚」としてもいい。原因は、いろいろなことを一文に盛り込みすぎたことにある。次のようにほぐせば、通りの悪さは解消する。

 とくに思い出深い写真は、平成七年の阪神大震災のあと、就職のために履歴書に貼った一枚だ。私はそのころ、崩壊した店舗を再建する気力もないまま、空しく日々を送っていた。ようやく就職を決意し、混乱の残る五月、街の写真屋に足を運んだ。できあがった写真には、困惑からまだ抜けきれない顔が写っていた。

 原稿用紙二枚(八百字)とか三枚(千二百字)とか、分量の制約があるとき、表現を無理に圧縮しようとして、こうした悪文に陥りやすい。確かに、かみくだけば長くなるのは避けられない。私の手直しでも一行増えている。そういう場合、無理に圧縮するのではなく、どこかを思い切って捨てる踏ん切りが必要だ。

 

【例2】(まだ珍しかった百円ショップが自宅の近所にできて)NHKも中継するという前日、ディレクター、女性アナウンサーが挨拶に来てくれた。電波の具合では、屋上を使用させて欲しい等の打合せの際、家の前に雑然と止める駐車違反の車、捨てられている多くのゴミを見て、「すぐ側に、こんな迷惑をしている人が居ることを知っても、明日は明るく広い店内、便利さ安さを強調した放映で、自分が感じたことや、思いを伝える言葉でない時に、不自由な表現になることがあり、言葉を使うことの難しさに、毎日苦労をしています」と言ったNアナウンサーは、東京転勤になりましたと連絡があった後に、早朝番組に元気な姿で登場した。

 何と二行目「電波の具合では……」から七行目「……と言った」までの百八十字が「Nアナウンサー」にかかる修飾句なのだ。これでは読み手は途中で文脈を見失う。しかも、カギカッコの中のアナウンサーの言った言葉の意味がどうにもつかみにくい。筆者の説明を聞いて、こういうことだとわかった。

 「百円ショップのすぐそばで、こんなに迷惑をこうむっている人がいるとわかっても、番組では、店内が明るくて広いとか、店が便利で安いとか、いい面ばかりを強調することになるんですよね。自分が感じたことや思ったことを正直に伝えられません。そういうときは、どうしても表現が不自由になり、言葉を使うことの難しさを感じます」

 最初からこう書けば、引っかからずに読めるのに。

 元の文は、「長すぎる修飾句」という欠陥に加えて、「わかりにくい並列」が何カ所も出てきて、通りの悪さを増幅している。

 

   家の前に  雑然と止める駐車違反の車、

         捨てられている多くのゴミ  を見て

   明日は  明るく広い店内、

        便利さ安さ    を強調した放映

   自分が  感じたことや、

        思い     を伝える言葉でない時

 

 意味から判断すれば、こういう構造になっているはずだ。文を一読しただけでは、そこがすっと理解できない。だから読み手は引っかかるのである。これを解消するには、並列したところを同じ形に揃えなければならない。

   雑然と止めた駐車違反の車/投げ散らかした多くのゴミ

   店内の明るさ広さ/店の便利さ安さ

   感じたこと/思ったこと

 何と何を並べているのかがわかりにくい文章は、新聞記事でもしばしば見受ける。自分では並べたつもりで書いているから、読み返しても気づきにくい。「形が揃っているかどうか」をチェックすれば、気づきやすいかも知れない。

 

【例3】刑期を終えても、スパイのレッテルを貼られたまま生きていかなければならなかった蜂谷さんを、三十七年間、命がけで守り抜いてくれた大恩人のクラウディアさんとも、結局別れることになる。

 「刑期を終えても……」以下の六十六文字が「クラウディアさん」にかかっていて、いかにもアタマが重すぎる。次のように二つに分解すれば、かなり改善できる。「刑期を終えてもスパイのレッテルを貼られたまま生きていかなければならなかった蜂谷さんを、クラウディアさんは三十七年間、命がけで守り抜いてくれた。そんな大恩人とも、結局、蜂谷さんは別れることになる」。あるいは三つに分解する手もある。「刑期を終えてもスパイのレッテルを貼られたまま生きていかなければならなかった蜂谷さん。そんな彼を三十七年間、命がけで守り抜いたクラウディアさん。しかし結局、二人は別れることになる」。こちらのほうが、いっそうすっきりしている。

 今度は、主語が揺れ動いた文。

 

【例4】心に残ったままのたくさんのありがとうは時々後悔で私を苦しめる。またある時はこんなに温かくやさしい気持ちに支えられてきた道のりをまんざらでもなく思い、ほこらしい気持ちにさせてもくれる。

 「たくさんのありがとう」という擬人的な表現を主語にしたのは構わない。だが、後が乱れてしまった。次の「こんなに温かくやさしい気持ちに支えられてきた道のりをまんざらでもなく思い」の主語は「私」だろう。なのに、そのあとの「ほこらしい気持にさせてもくれる」の主語は、再び「たくさんのありがとう」に戻っている。以下のように改めれば、主語が揺れ動かずに済む。

 心に残ったままのたくさんのありがとうは、時々後悔で私を苦しめる。しかし、一方では、誇らしさで心を満たしてもくれる。こんなに温かくやさしい気持ちに支えられて、私は生きてきたのだと。

 「ほこらしい気持ちにさせてもくれる」を「誇らしさで心を満たしてもくれる」と言い換えたのは、そのあとの「こんなに温かくやさしい気持ちに支えられて」の「気持ち」とダブるからだ。同じ文中に、異なる「気持ち」を同居させては具合が悪い。

 

【例5】その後、舅は、五十台半ばでアル中になり、玄関で転び入院した。アル中になった時、姑は体裁が悪かったのか、舅は所帯を持ったばかりの我が家に来た。

 これも主語が舅から姑になって再び舅に戻っている。真ん中の「アル中になった時、姑は体裁が悪かったのか」を「姑に体裁が悪いと疎まれたのか」とすれば解決する。あるいは、ここで姑を主語に転じて「アル中になった時、姑は体裁が悪かったのか、所帯を持ったばかりの我が家に舅を押しつけた」としてもいい。

 

【例6】婿は、花札などというあまり品のよくないらしい遊びを、結婚前はしたことがなかったらしいが、娘に仕込まれていろいろな役作りも覚え、一緒に打ち興ずるうち、大晦日の夜もふけた十一時頃、年越しそばのサービスにあずかった。

 温泉旅館で年越しをした話の一節。一文の中で二つのことが混線している。「婿は」で書き起こしながら、最後は「年越しそばのサービスにあずかった」と、家族全員の話になってしまっている。「婿は娘に仕込まれて花札を覚えた」という過去のできごとと、「その婿も一緒になって(私たちは)花札をした」という現在のできごとを一遍に言おうとしたのが原因だ。どこで混線したかというと、「一緒に打ち興ずるうち」のところ。ここで無意識のうちに、主語が「婿」と「私たち」の二重になって、競合脱線を起こしたわけだ。

 

【例7】(フィリピン大学に留学した私は、大学の野球部の仲間に日本の高校野球について)話をしていた。しかし、話が進むに連れ、次第に興味が薄れていくのを感じた。しまいには、なぜそこまでするのか信じられないというような反応を露わにし、得意げに話していた私自身、一人だけ温度差を感じた。

 これも典型的な主語の捻れ。「(私の)話が進むに連れ、次第に(彼らの)興味が薄れていくのを(私は)感じた。しまいには、(彼らは)なぜそこまでするのか信じられないというような反応を露わにし、得意げに話していた私自身、一人だけ温度差を感じた」と、行ったり来たりしている。一文で済ませようとせず、「彼らは次第に私の話に興味を失っていったようだった。終いには、なぜそこまでするのか信じられない、というような反応を露わにした。得意げに話していた私は、一人だけ温度差を感じた」と分解すれば、混乱しない。

 

 悪文を書かないためには、一つの文にあれもこれも欲張って盛り込まないことだ。そして、文章を書いたら、できれば一日か二日置こう。時間を置いて読み返せば、通りの悪い個所に気付く可能性がそれだけ増す。