武内つなよし(1)
私が「赤胴鈴之助」の作者・武内つなよしのことを調べようと本気で考えるようになったきっかけは、二〇〇二年から二〇〇三年にかけての「アトム誕生五十周年」フィーバーである。
手塚治虫の「鉄腕アトム」は「少年」昭和二十六年(一九五一年)四月号に「アトム大使」として登場し、翌二十七年四月号から「鉄腕アトム」として再スタートを切った。そこから数えて五十年は、二〇〇一年ないし二〇〇二年である。
さらに、「アトム大使」の中では、「この物語は、科学万能時代の何千年もさきのお話です」という断り書きがあったのに、いつのころからか「二〇〇三年四月七日」がアトムの誕生日ということになっていて、この時期、さまざまなメディアに「アトム」の名前が頻繁に登場するようになった。そこに商業主義的な作為を感じた私は、朝日新聞西部本社版の夕刊コラムに、こんな記事を書いた。
赤胴鈴之助(2003.04.10「偏西風」)
巨人と聞けば西鉄、渋い栃錦より豪快な若ノ花と条件反射してしまうアンチ指向のレトロおやじとしては、世のアトム人気に一言申さずにはいられない。
確かに手塚治虫の「鉄腕アトム」は、漫画月刊誌「少年」の人気シリーズではあったけれど、決して他を圧倒していたわけではない。
小学生の読者には、むしろ横山光輝の「鉄人28号」のほうが人気があったように思う。意思を持ったアトムより、操縦者の命令次第で悪の味方にもなるところに、真実味があった。あるいは堀江卓の「矢車剣之助」。城が戦車になって驀進するなど、荒唐無稽を突き抜けて面白かった。
「少年画報」の「赤胴鈴之助」も人気シリーズだった。小生など、この漫画をいちばん熱心に模写した。後にラジオドラマ化され、吉永小百合が芸能界デビューした作品でもある。作者の武内つなよし氏が忘れられているのが残念だ。
アトムの時代は、いろんな人気キャラクターがひしめき合った漫画の黄金時代だったのだ。遅れてきた世代の諸君、どうだ、悔しいだろう。
この記事を書いたあとで、改めて武内つなよしの消息が気になりだした。あれこれ調べた結果、すでに亡くなっていることはわかったが、今度は没年がはっきりしない。手塚治虫や横山光輝に比べて、活躍した期間が短かったことや、代表作が少ないことは事実だとしても、間違いなく一時代を築いた漫画家である。手塚に関してはおびただしい評論があり、死去した日付も「一九八九年二月九日」とはっきりしているのに、武内に対しては一条の光さえ当てられていないのは、私には不当に思われた。
武内つなよし(2005.03.15「偏西風」)
昭和30年代へのノスタルジーが高じて、「少年画報」に29年から35年まで漫画「赤胴鈴之助」を連載した武内つなよし(故人)のことを調べている。
武内は、赤胴鈴之助の爆発的人気で一躍、売れっ子作家になり、その後も「少年ジェット」「ひよどり天平」「コンドルキング」などのヒット作を生み出した。
戦後漫画史に残る巨峰なのに、きちんとした評伝や作品目録が見当たらない。人物データベースなどを当たっても、生年は1926年で一致しているのに、没年は87年なのか88年なのか確定できない始末だ。
武内を埋もれさせてしまった責任の一半は、われわれ団塊世代にある。昭和30年代前半に小学生時代を過ごし、武内作品の最も熱心な読者だったにもかかわらず、時代の証言者としての役割を果たしてこなかった。
武内と少年画報を検証することで、子どもにとっての昭和30年代を考えてみたい。
まもなく早期退職で新聞社を去る。これが99本目の「偏西風」。独断と偏見に満ちたコラムに長らく付き合って下さった皆さまのご厚情に感謝します。
退職する前に、朝日新聞の「戦後60年」企画の一環として、「赤胴鈴之助の時代」のエッセンスだけでも紙面化したいと思い、社会部に企画案を提出する一方、東京に出張して少年画報社の当時の編集者や、武内の遺族などへの予備的な取材を試みた。少年画報社の取材は順調にいったが、遺族の取材は不首尾に終わった。結局、新聞社の企画には採用されずじまいだった。
しばらくして、武内の子息から取材申し込みに対する断りの返信メールをもらった。「ひとたび、つなよしとの関係が世間に広まればマスコミから適当に茶化され、私の人生が私のものでなくなってしまいます。つなよしとの思い出は私個人の心の中で今でも生きていますし、大切にしています。どうかそっとしていただき、私を巻き込まないでください」と書いてあった。かろうじて、武内に関する基礎データだけはもらった。そのまま紹介する。
本名………………武内 綱義
ペンネーム………武内つなよし
誕生………………1922年(大正11年)2月22日
他界………………1987年(昭和62年)4月17日
享年………………65歳
代表作……………赤胴鈴之助、少年ジェット
趣味………………読書、囲碁
出身地、経歴など、ほかにも知りたいことは多々あるし、子息が取材を嫌う理由がどうもよく理解できなかったが、ともかく生年が四年も違っていたことと、没年が87年だったと確認できたことを収穫として、引き下がるしかなかった。
武内の死因は癌である。少年画報社の担当編集者だった岡野康雄は「肺癌だった」という。復刻版『赤胴鈴之助』(アース出版局)第二巻の巻末に、武内の仕事を手伝ったことのある男性が「幼な日に見し赤胴鈴之助」という一文を寄せていて、そこに自作の短歌で「見舞ひたり抗癌剤にぬけおちてまゆ毛あらざる武内つなよしを」「癌に逝きし年の賀状に元気ですと書きゐまししよ武内つなよしは」と詠んでいる。
漫画家として世に出るまでの経歴はよくわからない。前に紹介した『月刊現代』(講談社)二〇〇四年一月号の特集「忘れえぬ昭和漫画史の異能・異才30人」の中の「武内つなよし」では、こうなっている。
武内は大正11年、横浜市生まれ。太平洋美術学校を卒業後、徴兵。戦後は炭坑夫(労組委員長)などを経て画家を目指す。耐乏生活の中、紙芝居で絵を描く修業をつみ、昭和26年、探偵を主人公にした『燃えない紙』(「探偵王」、秋田書店)で漫画デビュー。漫画家として軌道に乗ってきた頃に舞い込んだのが『赤胴鈴之助』第2回目からの執筆依頼だった。
横浜市生まれかどうかは確認できていないが、育ったのは福島だったようだ。「少年画報」昭和三十三年十二月号に載った「武内つなよし先生訪問記」という記事で、本人がこう語っている。
「こどものころからまんがをかくのが好きでした。小学生のころは福島にいたのですが、福島の新聞にまんがを投稿して、よく入選しましたよ」「(まんがを書き始めたのは)5年くらい前からでしたね。それまでは紙芝居の絵をかいたりして、まんがの勉強をしていました」
紙芝居の絵を描いていたということは、紙芝居作家から著述業に転身した加太こうじの『紙芝居昭和史』(岩波現代文庫)で裏付けられる。加太は「(紙芝居の絵の技法として加太らが標榜した)モンタージュ論を熱心に受けとめた武内つなよしは、それはそれで作品を作る上に応用したが、出版への足がかりは永松に求めて、やがて永松の世話でマンガ家横井福次郎(福井英一と取り違え)が死んだあとの横井作の『赤胴鈴之助』を連載第二回から描いて、児童マンガ界の人気者になる」と記している。
「永松」とあるのは、戦前に大ヒットした紙芝居「黄金バット」の初代作者である永松健夫(武雄)のことだ。戦後は連載絵物語として復活させ、「少年画報」が誕生するうえで多大な貢献をした。
『少年画報大全』(少年画報社)の中で、永松の娘(谷口陽子)がインタビューに答えて、「水木しげるさんや当時有名だった武内つなよしさんもよくいらしていた。私、『赤胴鈴之助』とか描いて貰いましたよ」と語っている。水木も紙芝居の出身である。世に出る前の武内が紙芝居の仕事をしていて、その際に偉大な先輩である永松の世話になったであろうことは間違いなさそうだ。
「太平洋美術学校卒」という学歴はどうも信じがたい。社団法人「太平洋美術会」の略史によれば、会の前身である明治美術会は明治二十二年に創立され、明治三十七年に洋画研究所を開設、昭和四年に研究所を太平洋美術学校と改め、官立の美術学校と対抗して幾多の英才鬼才を洋画壇に送り出した、とある。《註》
もちろん、若き日の武内が洋画家を目指して、福島から上京したとしてもおかしくはない。現に田河水泡や杉浦茂のように、洋画家志望だった漫画家もいる。しかし、独学で絵の勉強をするのと、美術学校に通うのとでは、金のかかりようが違おう。金銭的に余裕がなければ、画学生など叶わぬ道だったのではないか。戦前の武内がそうした「金持ちのボンボン」だったという話は伝わっていない。
軍隊経験も、詳しいことはわからない。復刻版『赤胴鈴之助』第一巻の巻末で、武内の妻スエ(故人)が「若き日に招集(召集の誤り)令状を受けて、千島列島での陸軍生活を余儀なくされました折、親しい戦友の方が、夫の目の前で亡くなられ、たいへん悲痛な思いをしたということを聞いております。人と人とが殺し合うことの虚しさが深く心に刻まれ、そうした気持が作品のひとつひとつに影響を与えているように感じられます」と書いている。
千島守備隊に死者が出たとなれば、終戦直前のどさくさ紛れに参戦したソ連との戦闘としか考えられない。『陸軍師団総覧』(新人物往来社)で調べると、第八十九師団(択捉島)か、第九十一師団(占守島)ということになる。しかし、両師団とも北海道や千島で編成された部隊であり、福島出身の武内が配属された経緯がよくわからない。しかも、生き残った兵隊はシベリアに抑留されたはずである。あるいは武内には抑留経験があったのかも知れないが、私の今までに得た資料では、そうした事実は突き止められなかった。
炭鉱で働いていたというのは事実のようだ。少年画報社の岡野康雄は「武内さんは福島出身で、常磐炭鉱で炭坑夫をしたり、奥さんと行商をやったりして、貧乏生活をしていたんですね。それで、東京に出てきて、紙芝居の下絵なんかを描きながら、漫画の持ち込みを続けていた」と言う。昔、そういう打ち明け話を武内本人から聞いたのだろう。
こうやって見てくると、数々の辛酸をなめながら漫画家への道を一歩一歩切り開いてきた苦労人、という人物像が浮かぶ。死因の「肺癌」にしても、もしかしたら炭鉱時代の「塵肺」が悪化した可能性だって否定できない。武内が自らの生い立ちや下積みの苦労話を記録に残さなかったのが惜しまれてならない。
【註】卒業生名簿に武内綱義という名前があるかどうか太平洋美術会に照会したところ、現存する名簿には見当たらないとの回答を得た。会によると、名簿の原本は昭和二十年三月の東京大空襲で、軍需工場になっていた校舎とともに焼失した。現存する名簿は、昭和三十年代に卒業生有志が手作業で拾い出したという。数千人にのぼると見られる卒業生総数のうち、収録できたのは約千二百人分だった。
これをもって、武内が卒業生でなかったとはもちろん言い切れない。が、三十年代に名簿を編纂したのであれば、すでに売れっ子になっていた武内が同窓生の網に引っ掛からなかったとも考えにくいのではなかろうか。