武内つなよし(2)

 

 「赤胴鈴之助の時代」の取材は、ゼロからの出発だった。私はまず少年画報社に連絡をし、武内つなよしを知る社内の関係者を紹介していただきたいと頼んだ。幸い「赤胴鈴之助」の担当編集者だったOBの岡野康雄が健在であることがわかった。それが二〇〇五年三月十日。退職まであと一カ月少々あった。

 教えてもらった電話番号を回すと、岡野が出た。「朝日新聞の記者で池見と申しますが……」と名乗ると、いきなり「うちは読売。朝日は嫌いだ」と、新聞のセールスと間違えられた。何とか誤解を解いて電話の趣旨を伝え、「近々上京するので、会って話を聞かせてもらえないか」と申し出た。九州からと聞いて岡野も気の毒に思ったのだろう、取材に応じてくれることになった。

 あれこれ関係先の取材の段取りを整えるのに日数を要し、千葉県船橋市に岡野を訪ねたのは三月三十日だった。JR西船橋駅に近いマンションの二階。チャイムを鳴らすと、どてら姿の岡野が迎えた。奥さんは外出中だった。居間の炬燵で、武内つなよしのことや、連載当時の思い出話を聞いた。

 

 岡野は昭和七年三月生まれ。少年画報社の創業者である今井堅の甥に当たり、昭和二十六年三月末に入社した。「鈴之助」の連載が始まった昭和二十九年当時は、まだ二十二歳の下っ端だった。下っ端の岡野が武内の持ち込み原稿を見ていたことが幸いして、福井英一急死のあとを武内が描き継ぐことになったのだから、武内にとって岡野は「福の神」である。

 「とにかく真面目すぎるぐらい真面目で、熱心でしたね。若造の私の出す注文でもちゃんと聞いて、一生懸命やってくれた」

 時に武内三十二歳。十歳下の岡野に言われて、福井の絵に似せるために、トレーシングペーパーを当てて上からなぞる練習をしたことは、前に書いたとおりだ。「このチャンスをなんとしてもものにしなければ」と、せっぱ詰まってもいたはずだ。

 「鈴之助」が軌道に乗った昭和三十年ごろから、武内にも運が向いてきたと言えるだろう。この年、「少年クラブ」(講談社)にプロレス漫画「ハンマー君」、「ぼくら」(講談社)に柔道漫画「タツマキくん」、「痛快ブック」(芳文社)に相撲漫画「横綱鬼面山谷五郎」、「野球少年」(芳文社)に柔道漫画「風の弥太郎」、「おもしろブック」(集英社)に探偵漫画「探偵探四郎」と、矢継ぎ早に連載を広げていく。「鈴之助」も、二十九年十二月号の初の別冊付録が評判を呼び、三十年には五回も別冊付録になって、「少年画報」きっての人気漫画の地位を固めた。

 「最初のころは、鈴之助と竜巻雷之進に何か得意技を持たせようということで、二人でいろいろ知恵を出し合いましたよ。真空斬りを考えたのは武内さん。カマイタチから思いついた。雷之進の稲妻斬りは僕だったかな。ストーリーの打ち合わせもずいぶんやりました。鈴之助と雷之進を喧嘩させて仲直りさせようとか、鬼面党という悪党を作って、二人でやっつけさせようとか」

 筋書きに行き詰まった武内に、山手樹一郎の「少年剣士」を参考にしたらどうかとアドバイスしたのも岡野だったようだ。知恵を出すばかりではない。アシスタント制度が確立していなかったこの時代、締め切りが迫ってきて作業を手伝うのは編集者の重要な仕事だった。

 「ケント紙に、B5ならB5の一ページ分の枠を僕が線で引くでしょ。すると、武内がコマ割りして、鉛筆で絵を描いていくわけです」「鈴之助の着物の柄はね、最初は簡単な絣模様だったんだけど、僕が鈴を家紋のように入れたらどうだとアイデアを出した。模様を入れたりするのは僕が手伝っていたから、自分で言い出しておきながら、お陰でえらく手間を食うようになった」

 もう一つ、「赤胴鈴之助」が大ヒットしたことによって、余分な仕事が二人に降りかかってきた。単行本発行に伴う切り張り作業だ。

 ここに掲げた画像で説明しよう。上は「少年画報」昭和三十二年三月号本誌の連載第一ページ、下は復刻版『赤胴鈴之助』(アース出版局)の第七巻で、元の単行本でいうと三十二年十月に出た第十三巻だ。連載の最初の大きなコマは全面的に描き改められている。下段の中央のコマと左のコマも、単行本をよく見ると、鈴之助の左側部分に絵が描き足してある。また、単行本の最後のコマは、連載では次のページの最初にあったコマを持ってきたものだ。

 「B6版の単行本は三段に割り付けるんだけど、本誌は倍のB5版四段割りだから、そのままでは使えない。僕が切り張りして、例えば真四角のコマを横長に引き伸ばす必要があれば、武内さんに左右を描き足してもらうわけだ」

 単行本と同じサイズの別冊付録はそのまま使えるが、逆にそれが制約になって、本誌の切り張りはぴったりページ単位で終わらなければならない。なかったコマを新たに付け加えたり、無駄なコマを飛ばしたり、かなり面倒な作業だったのだ。

 単行本はほぼ二カ月に一冊のペースで発行された。岡野の記憶では「一回に四、五十万円の印税を武内さんのところに持って行った」という。

 定価九十五円だから、印税が一割の九円五十銭だとすると、初版で五万部刷った計算になる。当時、「一万三千八百円」という歌がはやったように、大学卒サラリーマンの初任給が一万何千円かという時代に、連載分の原稿料のほかに、二カ月に一度、四、五十万円の臨時収入が転がり込んでくるのである。

 「僕もずいぶんご馳走になりましたよ。武内さんは元々、あまり飲める口じゃなかったんだけど、金回りがよくなってから、遊びを覚えた。小料理屋とかじゃなくて、もっぱらキャバレーだったな」

 

 今まで何度か紹介した本間正夫『少年マンガ大戦争』(蒼馬社)の中に、岡野の名前が出てくる。超売れっ子作家の桑田次郎から原稿をもらうのに、各社の編集者が談合して順番を決める話だ。語るのは、講談社の「ぼくら」で桑田担当だった吉田憙弘。

 桑田は昭和三十二から「少年画報」に連載を始めた「まぼろし探偵」がブレークし、三十四年には「赤胴鈴之助」に代わって、人気ナンバーワンにのし上がった。岡野もこのころ、武内担当をはずれて、桑田担当になっていた。吉田の話は、当時の編集者の気質や駆け引きの様子がよくわかるので、少し長いが引用する。

 

 まず、どこかの飲み屋に各誌の担当編集者が集まって、どこが先に原稿をもらうか決めるわけですよ。では始めよう、と、とりあえず乾杯をするのですが、これがメチャクチャ強いお酒で3回くらいイッキ飲みをするわけで、お洒を飲めない人や、そんな野蛮なことはごめんだっていう人は、ここで降りてしまう。たしか『おもしろブック』の担当の人だけは高見の見物でしたね。だいたいが『少年画報』の岡野さんが一番になるのですが、そのうちに酔っ払っちゃってコノヤローってことになっちゃう。

 当時の『少年画報』は売れに売れていてね。社長のお嬢さん(今井房子)がご自分でクルマを運転して原稿を取りにくるのですが、これがまたカッコいいんです。桑田さんを壱岐坂(本郷)の旅館によくカンヅメにしたので、私たちもそこへ乗り込んでいったのですが、玄関で門前払いですよ。

 我々、講談社と他社では編集者の気質が違っていましてね。こっちがサラリーマンなら、あっちはジャーナリストくずれみたいなもんで、こっちは小回りがきかないけど、あっちは小回りがよくきくって感じでしたね。とくに『少年画報』の山部さんはツワモノで、脅かされたり、煙にまかれたりで、たいへんな目にあいましたよ。(以下略)

 

 これを読んで私は、同時代にNHKテレビでやっていたドラマ「事件記者」を思い出した。警視庁の記者クラブに所属する社会部記者たちが、あの手この手でライバル紙を出し抜いて特ダネを追うシリーズだった。

 私が新聞記者になったころは、すでに世の中のサラリーマン化が進んでいて、先輩たちの武勇伝を聞くだけだったが、昭和三十年代の男たちは、まるで子どもの喧嘩のように「抜いた抜かれた」に情熱を燃やし、「勝った負けた」で酒を飲んでいたのだ。高度経済成長期に突入する前の日本社会は、それだけ単純で若々しかったのだろう。雑誌記者たちも、いかに作家の懐に飛び込むかで知恵を絞ったに違いない。

 少年雑誌各社の駆け引きは、きれいごとばかりではなかった。他誌に連載中のヒット作の力を削ぐために、その漫画家を忙しくさせるのも戦法の一つだった。新たに連載を頼んで、それが当たれば儲けもの、当たらなくても、漫画家が忙しくなるぶんだけ、敵のヒット作の質が落ちるという計算だ。

 他誌がそういう目的で武内に攻勢をかけたかどうかはわからない。が、三十二、三年ごろの武内が手を広げすぎた状態にあったことは確かだ。

 別掲の「武内つなよし作品」と、これを図式化した「連載見取り図」を見ていただきたい。例えば、三十三年一月号の時点で、「赤胴鈴之助」以外に武内が抱えていた仕事を拾い出すと、秋田書店の「冒険王」に「ひよどり天兵」、集英社の「おもしろブック」に「小天狗大助」、講談社の「幼年クラブ」に「どろんどん助」、光文社の「少年」に「山彦小太郎」を連載中であり、なおかつ一月号から講談社の「少年クラブ」に「嵐龍太郎」、講談社の「ぼくら」に「三日月神平」、秋田書店の「漫画王」に「Xけんじ」の連載を始めるという超多忙ぶりである。いくら何でも、これでは筆が荒れないほうがおかしい。岡野が言う。

 「赤胴鈴之助の人気が出始めたころ、これ一本に絞れって言ったんです。でも、よそが金を積んでくるから、受けてしまう。あちこちに描いて、結局、人気が落ちていった。よそに描かせないために、少年画報にもう一本描かせたこともありました。吉中一郎の名前で連載した『少年マイティ』がそうですよ」

 他誌の攻勢に対抗するために、さらに忙しくさせて防衛するという自己矛盾。「赤胴鈴之助」の大ヒットは、武内をまたたく間にトップクラスの漫画家に押し上げると同時に、やがて来る失速をも密かに準備していたのだった。